お寺のブログ ~横浜寿徳寺お坊さん日記~

川崎・横浜の市境にある 静かな住宅街のなかの、心落ちつく禅寺のブログです。 〔首都圏・横浜・川崎のお寺 曹洞宗〕

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2015年03月

業者さんの手を借りながら、先代住職と寺族(お寺の奥さんや娘さんのことです)の遺品整理をしました。
今回は、遺品のなかで残すものの選別をこちらで全てして、処分するものの引き取りをしていただきました。

自分たちで故人の整理をすることによって色々と考えることがありました。


正直、遺品整理をする前までは、どこか、供養といっても実感が湧きませんでした。

今回、整理をして部屋を片付けると、故人の部屋を片付けている実感が湧き、部屋を片付けて、どこか申し訳無い気持ちにもなりました。

この世に残された我々は、遺された故人の部屋を故人が付き添わない状態で片付けなければならないのです。エンディングノートなどを整えても、どうしても片付けはしてもらうことになります。


これまでは部屋がそのまま残っており、どこかまだ死を実感していない自分がいましたが、

生きている我々が生活するためにも片付けをする必要があるわけです。
そして、恐らく奇麗になったこの部屋を、故人も喜んでくれるはずです。

しかし、どうしても、今回、部屋を片付けてしまい、申し訳無いという思いがありました。

やはり、この世の居場所であった部屋や家を片付ける我々の手で、新たな居場所(お墓)をつくってあげなければならないんだな・・・と強く思ったわけです。

(歴代住職のお墓はありますが、寺族のお墓は無いので、これから建てることになります)。


恐らく、全て遺品整理を業者に任せてしまったらこういう思いにもならなかったと思います。

我々も、正直、住職も勤めもあり、全部を遺族我々の手でするのは無理でした。

しかし、少なくとも、遺すものの選別を我々がしたことで、故人と向き合う時間を作れたと思います。

我々が今、生きることは、故人のこの世での居場所を奪ってしまうことでもあり、申し訳なさでもあり、その分の責任を感じることであります。
そうした思いがあることも、仏壇や御位牌、お墓を我々が必要としてきた理由だと思います。

最近、はやりのエンディングノートで生前に、遺品の処分などすべて決めてしまう人がいます。
遺された者に迷惑をかけまいと思うのは、大事なことかもしれませが、何事も行きすぎはよくありません。

後継者に負担を全くかけず、物も思い出も何も残さず、全てを奇麗にしてこの世を去ろうとは思いすぎでしょう。

全く整理をしないでこの世を去るのは、それはまた、遺族も困るかもしれませんが、
遺品を整理しながら、あるいはお墓参りをしながら、遺された者が故人を近くに感じ、あるいは、遺された者が死と向き合い、生きるということとしっかり向き合うことが出来るのです。

それは、人間らしい心を育てる上でとっても大事なことでは無いでしょうか。

後継者の心の成長の機会、心の通話の機会を奪わないでください。

遺族も面倒くさいからといって、全てを業者さんに丸投げせず、一緒に整理をしたほうが良いと思います。

エンディングノートであれこれ決めたとしても、
遺品整理においても、子孫にとっての大事なものは、故人にとって大事な物と必ずしも一致しません。
何を残すか。その選択を子孫にある程度、させてあげるのも大事なことでしょう。

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梅が散り、桜の季節がやってきます。少し咲いてきました。

戒名なんて付けるのは日本仏教だけ!おかしい、と思っている方いらっしゃいます。

でも、実はキリスト教も・・・洗礼名というのがあります。


イスラム教・・・洗礼名というのはありません。
ですが、最初の命名時にイスラムの教え・価値観に基づいた良い名前を付けることが多いと聞きます。
いわば産まれたとき、最初からイスラム教的な名前をもらっている人が多いです。
日本語訳すると、 知者、寛大、ライオン、祝福された
などの名前の意味になります。

宗教の世界に入る時、それに相応しい名前を受けるのはそれほど不思議なことではありません。
(キリスト教、イスラム教は、生前の名前がすでにそうした宗教的な名前だったりすることがあります)

キリスト教圏の方の名前も、そもそも産まれた際に聖人や偉大な人の名前であったりすることも多いと思います。

それが、日本の戒名が確立していった中世以前の名前は、たとえば生前、産まれた時には幼名を名乗り、成人すると●●太郞などの名前を名乗り、それがある程度の年齢になると出家名になるという、いわば名前を変える文化のもとで戒名があったことは忘れてはいけないと思います。

ですから、仏の世界にはいるときに特別な名前を名乗るというのは、さほどこうした伝統や社会的な情勢を考えれば伝統を残しているという意味では変なことでは無いように思うのです。

ただ、そうした歴史が古くさく、不要と考える人もいますし、
やはり、そうしたものを大事に伝えていく人もいます。それだけのことでしょう。

ただ、私からは世界的に見て宗教観に裏打ちされた名前を名乗るというのは
全く奇異なことではないとだけ申し上げておきます。

芸能人がテレビでこんなことを言ってました。

何故か、と聞くと、心のなかに故人はいるからだそうです。

私はこの意見も一面ではもっともだと思います。もう一面では全く違うと思います。

どういうことかと申しますと、

仏教でも心で思うことを仏教では大事にします。

仏教には、三界唯心造という言葉があります。

この世の全ては自分の心があって、はじめて存在できるということです。

この心の働きが無ければ、外の世界を感じることもできませんから、故人だけでなく、私たちが感じる全ては私達の心が作り出すものでもあります。

そういった意味では故人が心のなかにいるという意味では私もそうだと思います。一方で違うと思うのはどういうことかといいますと、これから説明いたします。

ただし、私が思うに、そういう心の中で感じるということ、形でも行うということ、は矛盾しません。
心のなかで深く感じれば、それが自然と体を動かすこととなります(たとえば喜びが自然と、顔をほころばすように)。
体と心は違うものではありません。一体のものと考えます。これを、身心一如ともいいます。


そういった意味で、故人を心のなかで近くに感じる価値観と、故人が眠るお墓を大事にする価値観は矛盾するものでは無いと思います。

お墓参りを欠かさないひとのほうが、故人をしっかり大事に思っていることが多いです。
それは、大事に思っていればこそお墓参りに行きたいと思うからです。

最近、お墓しまい というのがはやっているそうです。お墓をきれいさっぱり処分してしまうということだそうです。


ですが、
ご遺骨でもお墓でも、

本当に大事なものを捨てる人はいません。


とはいっても、無限にものを取っておくわけにはいきません。

遺品整理をしなければならないもの・思い出もあります。

でも、たとえば、親のものは奇麗さっぱり捨てれるという方でも、


先立たれた子どものものを全て捨てる人は私の知る限りではいません。



大事なものは形としても残してあるはずです。捨てなければならないものも限られた部屋で生活する以上、ありますが、いくつかはとっておきます。

親や祖母のものを全て捨ててしまうのは、本当は大事に今現在は思い切れて無いかもしれません。

私も遺品整理をして大分、故人のものを処分しました。


ただやはり捨てきれないものはいくつか残してあります。

そして、それは人間としてきっと大事な心だと思うのです。

墓しまい、もし、考えるのであれば、お墓をしまわない形、あるいは移転するという形ででも何とか一考の余地があるのでは無いでしょうか。

今月の山門前の標語です。

今月は、奈良時代の僧、行基が作ったと伝えられる和歌からとりました。




「山鳥のほろほろと鳴く声聞けば
父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ
 」
        (『玉葉和歌集』巻一九)

と書いてあります。山鳥が「ほろほろ・・・ほろほろ」と鳴いている声を聞けば、
父が、母が自分に呼びかけてくれるのでは無いか、と思うという和歌です。

この和歌は、鎌倉時代の正和元年-二年(1312-1313)に編纂された勅撰和歌集である『玉葉和歌集』に奈良時代の高僧、行基の読んだ歌として収録されています。
私がこの言葉を知ったのは、江戸時代に出版された、一般の方も読みやすい仮名文字・絵入りの
仏教に関する和歌(道歌)を百首集めた本を読んでいてのことです。
鎌倉時代に採録された和歌が、江戸時代にも伝えられ、紹介される。

千年の時代を超えて人々に愛される和歌、こういう伝統があるのです。

大流行曲「千の風になって」にも似た歌詩がありました。死んだ後は鳥になってという歌詩ですね。
千年も前から、つい少し前まで、日本で同様の和歌が愛され伝えられてきていたのです。
 

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