お寺のブログ ~横浜寿徳寺お坊さん日記~

川崎・横浜の市境にある 静かな住宅街のなかの、心落ちつく禅寺のブログです。 〔首都圏・横浜・川崎のお寺 曹洞宗〕

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2015年04月

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檀信徒以外の方で、直葬された後のご供養について問合せがあることがあります。
直葬をなさったあと、供養し直したい、やはりお経を読んで欲しいとのご依頼があります。その場合、当寺ではご遺骨をお花でお飾りしてご供養します。仏式にてあらためてお別れをしようという意味合いから葬儀のようにお飾りしています。
あくまで、当寺はですよ。
しっかりご供養をしたいという思いがあるからです。

とはいえ、普通に花祭壇を組んだらご遺族の方にもご負担になります。
あくまで花祭壇風にし、さらにご遺族の方のご負担を抑えるためにも、とても良心的なお花屋さんに協力してもらい、作っていただきました。値段を聞けば本当に驚かれると思います。

修行してお悟りを開いたらすごいことが起きるだろう。

こんなことが起きるに違いない。

・・・普通のひとは、悟ったら、こういうすごいことが、すごい人になる・・・と期待します。


ですが、禅の言葉に「悟了同未悟」という言葉があります。

この意味は、悟りをひらいても、悟らないのと同じである、ということです。

例えば、本人が悟りを開いたという実感があったからといって、するべき日常のことは同じです。

どんなに自分のことを偉そうに思ったって、トイレにいかねばならないし、食事をしなければいけません。


例えば、むしろ「悟った」という実感が、かえって「おごり」や、「悟り」という何かにとらわれて心が縛られてしまえば、「悟ってない」いわば「迷い」の状態と同じことになってしまいますよね。

悟っても悟らなくても、毎日、することは同じですよ、ということですね。

どうなろうと、つまり、我々は日常を生きているのです。 
つらいことがあろうと、何があろうと、それはかけがえのないことと思います。  合掌。

4月のご法事のご法話は、「お花まつり」をテーマにしています。

お花まつり とはお釈迦様の誕生日のことです。

今月、横浜の方の法事をさせていただきましたが、

お釈迦様の誕生の伝説を、私なりの考察を交えてお話させていただきました。

普段のお話より、やはりお釈迦様の誕生のお話は、エピソードも多く、興味深く聞いていただいたようです。

法話の時間は普段と変わらないのに、法話を終えたときには、楽しくあっという間に感じて頂いたようで、「え?もう法話、終わりなの?」という顔をしていただいたのが印象的でした。

毎回、こうやって最後までしっかりと聞いていただけるご法話をできるように精進していければ良いな、と思っております。


昨今、仏教に対する不信感を感じる世の中です。

今の世の中で、仏教を始めから信じてくれている人というのは昔より少ない。

私はこれは、当たり前と思います。もちろん、僧侶の堕落というイメージもあるでしょう。

しかし、実際の不信感の理由は「知らないから」だと思います。


家庭でも学校でも仏教のことを目にし、耳にする「知る」自然な機会は、現在、失われているからです。


人間、何も知らないのに、信じるなんていうことがありますか?



難しいですよね。だから知らなくて信じれないというのは、むしろ当たり前です。



最近、「ぶっちゃけ寺」という番組が人気なのは、そういう仏教を知っていただく機会をTVで提供しているからであり、

実は仏教の教えは知ってしまえば、「そうなんだ」「いいことを言っているんだなあ」

と、皆様に共感をもっていただけるからです。


仏教にはそれだけの力があるのです。

私はそう信じています。
なぜ、仏教を私は信じることが出来るようになったのか?

それは、私が大学ではじめて仏教を学び、その時にその教えの魅力を知ったからです。
そして、「堕落」というイメージで語られがちな、日本仏教の「本当の魅力的な姿」に圧倒されたのです。

知れば面白いです。そして、安心できる。それが仏教だと思います。

現代人が戒名はいらないと思う理由についてこんな理由もあります。

「死後に突然名前を付けられても、これまで親からもらった愛着のある名前がある。」

そうです。ですが、戒名をつけて、これまで愛着のあるお名前を捨てるわけではありません。

むしろ初めて付ける戒名に愛着無いのなんて当たり前です。

ですから、納得いただけない御戒名であったとするならば、それは宗教者・仏教者側にも問題がある可能性もあります。

たとえば、私ども曹洞宗寿徳寺がおつけする御戒名は、
 愛着のある生前のお名前も必ず戒名に入れます。
  
そもそも、生前のお名前は、「こんな人になればいいな」「こう育って欲しい」など、親(あるいは名付け親)が願いを込めておつけする名前です。

ですが、人生を全うした故人と残された者にとっては、ある意味、実際にどう生きたかと故人を讃えることができるわけです。それは自分からみれば社会的な業績など無い平凡な人生に見えるかもしれない。
でも、残された者にとっては、そうでは無いわけです。

残された者にとっては、故人がどんな仕事をしていたかだけでなく、どんなことに打ち込んだか、生前どんなお人柄や趣味であったかなどのほうが大事であったりするわけです。
そして、我々もそちらが大事と思っています。

実直な人、誠実な人、優しいひと、頑固な人、こんなことがあった、そんなことをお聞きしながら、
それを示し讃える文字を選びます。
その際も、なるべく熟語や故事を踏まえながら、戒名に相応しい文字をお選びします。
そして、死後の世界安らかに過ごせるように、今後の願いを込めた字も入れます。
 
そしてそれらが熟語や故事となるように付けております。

「戒名は自分でつける」という本があるそうです。
自分の人柄や好きな文字をいれれるから良いという主旨です。しかし、もし、こだわりがあるなら、我々にそれを伝えてください。そもそも、故人の人柄を御戒名に入れるように当寺ではしております。しかし、あえて、この文字を使って欲しいというご希望があれば、ご相談ください。

文字にも順序があり、こうした方がよい、この字は入れるべきではない、色々とあります。
戒名である以上、たとえば焼き肉が好きだからといって、「焼肉院汁汁熱熱居士」(やきにくいんじゅうじゅうあつあつこじ)などの戒名はやはり変なのです。
これは誰がみても変だと思いますが、しらないうちに、自分で付けてしまえば、これに近いことを行ってしまうわけですから。

それでも、どうしてもこだわりがある方は、ご一緒に名前を考えて、生前戒名を受けてください。
アドバイスも出来ます。 

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